妊娠はニュースだ。といっても、家庭のローカル局だけが速報を出す小さな事件。女は母性を獲得する。
男は――そう、あろうことか退行を始めた。正しくは、“下の子”の席にすべり込もうと画策しだした。

彼は風呂から上がったばかりで、髪は濡れていた。
「ちょっと、ちゃんと乾かさなきゃ風邪をひきますわよ」
「うい……」と情けなく返事し、ダニエルは膝に頭を落とす。
その重みの九割は情けなさで、残りは「どうせなら撫でてくれ」という魂胆だった。

「重たい!!」
「……甘えたいんです……」
「なにを言ってるの!?」

何を言ってるのかは本人にもわかってない。
突然の赤ちゃん仕草。
原因は不明。気圧のせいかもしれない。
男の尊厳はもはや、破れた傘のように、風が吹くたび裏返る。

「お腹の子ばっかり……ずるい……」
もののついでに嫉妬も吐き出す。
これは、大の大人の男のセリフとしては、わりと最悪の部類だったが、実際に口に出してしまうのが彼のすごいところであり、ダメなところでもあった。

「えっ?!」

女は流石に面食らった。
お腹の子 vs 大人の男、という、比較にすら値しない構図に戸惑った。

少なくとも現時点で表面積の多さではわたしの勝ち。
対象がまだしゃべれないってのがまたいい。
これは大きなアドバンテージだ。
勝てる気がする。と、ダニエルは思っていた(たぶん)。
幼児退行にも打算がある。

「……………。はいはい。よしよしして差し上げますわよ」
と女が撫でる。慈しみか、教育的指導か、いずれとも言えぬ不思議な手つきで。

「おっきな赤ちゃんですこと……」
「……ぼく、赤ちゃんです……」
「おしゃぶりでも要る?おむつ替える?」
「そこまでは大丈夫です」

男はふて寝を選んだ。泣くでもなく、すねるでもなく、ただ眠ることでこの局面を回避した。



朝が来た。トーストが焼けた。ダニエルは、それを自分でちぎらなかった。
なぜなら、赤ん坊だったから。

「ん〜〜あ〜〜〜ん」

「…自分で食べなさいよ」

🥺

「イラッ」

食卓に漂うのは、パンの香りと、女の苛立ち。

「……あたくし、子どもを二人も育てる予定はなくってよ!!!!」

だが、言葉とは裏腹に、手元のパンを律儀にちぎり続けていた。
スリッパの裏で、愛情と憤りをきしませながら──。


午前五時半、まだ明けきらぬ空、夜がカーテンの裾でぐずぐずしている時間帯、寝室。カネアは腹の痛みにじっと耳を澄ませていた。目を覚まし、ピンクの毛布の中でじっとその波のような感覚を待つ。これはもしかして――いや、これはまさしく、そういう痛み。

カネアは、隣で大の字になって眠る男へと手を伸ばした。彼女の妊娠にずっと夢みたいだと言い続けてきた男。
夢が叶った今は、熟睡していた。
「……ダニエル。ちょっと、痛い。お腹……ぎゅって、来てますわ」来たとは、もちろん宅配便ではなく陣痛のこと。
ダニエルはまぬけな声で“ふにゃ……ぬぁ?”と返事したが、2秒後には白目むいて跳ね起きた。

「っええええええええ⁉️⁉️カネア様⁉️陣痛⁉️‼️ 陣痛ってあの……本番のやつ⁉️ ついに⁉️」
「たぶん、そう。10分間隔で来てますわ。今はまあまあ耐えられる」

ここからが男の見せ場、などという妄想は2秒で崩壊した。
「ど、どどどどどうすればいい⁉️ MAM‼️お湯‼️お湯用意して!いや違う、お湯じゃない!タオル⁉️救急車⁉️ カネア様、深呼吸を‼️フゥー、フゥーって‼️ 落ち着いて、落ち着いてください‼️‼️‼️」
誰がどう見ても取り乱していた。動揺のフルコース。
彼女は、彼の大仰な動きに一瞥をくれ、肩をすくめた。
「……あんたが落ち着いて」
「わたし⁉️⁉️」
問いかけ自体が、すでに答えである。

ダニエルは焦りでスマホのロックも外せず、産院の電話番号を書いた紙を握りしめ、部屋を右往左往する。

「カネア様‼️スマホ‼️顔認証が‼️わたしの顔じゃ開きません‼️‼️」
「そらそうでしょ‼️あたくしのスマホですもの‼️‼️」

(でもダニエルは止まらない)
(スマホを握るが、何故かロック解除に失敗、震える指)



ダニエル「待って、待ってください‼️ MAM‼️119にかけて‼️‼️
カネア様が‼️ カネア様が今‼️‼️‼️」



(ぴぴっ、ぴぴっ)

音声入力が立ち上がり、
ダニエルの叫びがメモ帳に転記されていく。

『たすけて うまれる かねあさま もう あしがでてるかも』


「出てません‼️‼️
あなた落ち着きなさい‼️‼️‼️‼️」

こうして慌ただしい朝の数分が過ぎた。
カネアは何から何まで間違っていたダニエルの狼狽ぶりを眺めるうち、ふしぎと心が静まっていく。
「……あんた見てたら、なんか冷静になってきたわ……」
そして、ため息まじりにスマホを自分で手に取る。

「ハイハイ、電話ぐらい自分でかけますわよ」

ピッ、と鮮やかにロックを解除し、番号を押す。

「……はい、産院ですか?カネアですけど、たぶん……来ましたわ」

隣で、ダニエルは自分が無力であることの証明のように、そこに立ち尽くしていた。
「……えっ、うそ、ちょ、待って……わたしがやるはずの……父親になる自覚、いまこそ見せるはずの……」

カネアは静かに彼を見て告げた。
「いいから運転の準備して。それから、カバン持って。母子手帳と保険証、全部そっちよ」

言われたとおりに荷物を持ち、車へ向かう。できることはそれだけだった。だが、その“それだけ”をやれるかどうかが問われる朝だった。

エレベーターのドアが開く。夜明け前の光が細く、足元まで届く。
そこでカネアは、痛みの隙間でぽつりと言う。
「もう…黙ってそばにいてなさい」
——命令でも祈りでもない、ただの依頼。ともに在るための最小単位。
ダニエルはまなじりを赤くして、まかせてくださいと言わんばかりに胸を叩いたが、すぐに痛がった。叩いたのは自分の胸ではなく、慌てて抱えた鞄だったのだ。カネアは笑わなかったが、少しだけ目元がゆるんだ。

運転席へ飛び込み、エンジンをかけ、ハンドルを握る手が震える。だがハンドルさえ握れば道筋は一本。ビルの外壁が後ろに流れ、街灯が車体をまだらに照らす。脳内で鳴るのは交響曲ではなく、ただの心拍音。
車は夜と朝の境目を抜けて、陣痛と狼狽を抱えた二人を乗せて速度制限ギリギリで突っ走る。
世界は彼らを祝福する代わりに、ただ夜明けを静かにフロントガラスへ差し出してみせるのだった。
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