レジの前で、彼は一度、普通に注文しようとしていた。
「カフェラテで……」と声を出しかけた時、隣から鋭く甘い声が割り込んできた。
「ダニエル、あなたもフラペチーノにしたら? せっかくなんだから」
言われて、一瞬ためらった。
カネア社長の“せっかく”は、結婚式のスピーチのように無下にできない。ダニエルの胸で、いわゆる お坊ちゃんカスタム魂 が点火した。火花が散ったのは本人の財布ではなく、店員の注文端末である。
「キャラメルフラペチーノのトールで——」
そこからが長かった。
もはや注文ではなく作文だった。
・エクストラホイップ
・エクストラキャラメルソース
・キャラメルシロップ多め
・アーモンドミルクに変更
・チョコチップ追加
・エスプレッソショット1追加
・氷少なめ
・そして最後に、「名前は“ダニー”で」
注文を聞いていたカネアは絶句した。
「なにその……長い……オーダー!?」
ダニエル、「え、いや……普通においしくするために……」
一方で、店員は嫌な顔ひとつせず微笑みながらカップにメッセージを書く。
“To ダニーさん🩷 Have a sweet day!!”
「見てくださいカネア様、ハートマークまで……!」
誇らしげなダニエルに冷ややかな目でカネア様、「ウザッ」
──
席に着き、ダニエルはストローを差し込み、わざとらしく「ふぅ〜…では」と満面の勝利顔で吸い込んだ。その表情が癪に障ったのか、カネアはストローの共有を要求。
「ちょっと待って、そんな顔して飲むから気になってきましたわ。ねえ、一口だけ」
「え?はい、どうぞ」
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「……ズッ……ズズッ……ズ……(←5口目)」
もはや“半分”だった。
正確には47%だったが、彼は主観で“60%”と感じた。
「あ、あの……」
「なによ」
「……それ、半分くらいもう……」
味見ですわ!
味見の量じゃない…
味見の定義は常に権力者が決める。副社長は残された甘味過多の泡を吸いながらアーモンドミルクとは何だったか哲学的に考え始めた。甘い、冷たい、ひと口奪われたらもう半分。まるで誰かの人生みたいな。
⸻
午後の陽がぼんやり差す、社屋のキッチン。
彼は小さなスポイトで、乳白色の原液を1滴ずつグラスに落としていた。
医療ドラマで見た“抗体注入”と、ほとんど変わらないテンションで。
1:38。
それが、彼の導き出した最適の愛情表現だった。
カルピス1に対して、水38。それはもう…カルピスと名乗るには、水すぎた。
カネアにそれを差し出すとき、彼は思った。
「彼女なら、わかってくれる」と。
──この気持ちが、いちばん薄かった。
「……できました、カネア様」
「あら、ありがとう。喉がカラカラでしてよ」
カネアはツンとした横顔でストローをくわえ、ちゅっ、と吸い込み、そこで時間を止めた。いや、正確には「これは何の飲み物か?」と判断しかねてフリーズしたのだ。
「…………」
「……お口に合いませんでしたか?」
「…………これ、……味がしませんわ……?」
「え? いや、ちゃんとカルピス入れましたけど……?」
確認するように、もう一口。
「ちがう……これは“かすかにカルピス風の雰囲気がする水”ですわ……」
「いえ、カルピスです。れっきとしたカルピスです」
そう説明した彼の手元には、使用済みのスポイトがひとつ。
まさか、カルピスをスポイトで計量する日が来るとは、誰が想像しただろう。
誰が、望んだだろう。
ダニエルは白衣こそ着ていないが、精神的には完全に実験中の科学者である。
ただし対象は「愛情」ではなく、「どこまでカルピスを薄めても怒られないか」という社会実験であった。
カネアが問いかける。
「……色、これ………ついてる?」
「……うっすら、曇ってますね。朝霧レベルです」
さらに一口。
「……ねぇ、やっぱりこれただの水ですわよね⁉️⁉️⁉️」
「違います、カルピスの気配が……わずかに……」
ダニエルが言い訳するあいだに、カネアは静かに立ち上がる。
そのまま冷蔵庫へ――
(ダニエルの声は遠くなる)
カネア、冷蔵庫の扉をバタンと開け、
カルピス原液のボトルをがしっと手に取る。
無言でキャップを外し、
原液を、グビッ、グビグビグビッ‼️
その場で直飲み。
「――これが、あたくしの“答え”ですわ」
グラスに残った曖昧な朝霧を見下ろし、
「カルピスと愛は濃度ですわね」と、なんか意味深なことを言いながら
やっと喉が満たされたカネアは、満足そうに微笑んだ。ダニエルはちょっと引いていた。
⸻
朝八時のコスモロード社は、たいていの企業がコーヒーの香りで一日を開けるその瞬間に、紅茶――しかも英国式ミルクティー――の湯気で社屋を満たすという奇妙な風習を守っている。誰が最初にそんな決まりを作ったのか、資料も記憶も残っていないが、実務を担うのはいつも副社長ダニエルだった。
ただし、この朝ばかりは事情が異なった。昨夜は残業に次ぐ残業、目の下にやや陰りを見せた副社長は、戸棚の奥にあった例の「粉末ミルクティー」(業務用スーパーで五袋入り七百円)を取り出して、わずかに罪悪感の混じる顔つきでそれをカップに投入した。
小袋を破り、湯を注ぎ、三秒で完了。色はそれらしく濁ったが、香りは行方不明だった。
クリーミーな泡が表面を覆い、「ロイヤルミルクティー」と呼ばれたいらしい表情を見せる。
さて社長であるカネア嬢――いや、社長とは言ってもうら若き乙女であるが――は、革張りのソファに坐し、例の紅茶を待っている。あれほど高らかに「あたくし専用の味」などと言っていたのに、その中身が粉末であることを彼女はまだ知らない。
ダニエルは出来立ての粉ティーを載せた盆を両手で捧げ持つ。
差し出された彼女は、まず一瞥をくれ、それから口に運んだ。口元に当ててすぐ、微かに首をかしげる仕草。傍目には可憐だが、ダニエルにはそれが審判であることは分かっていた。
「お湯のようですわ」と、カネア。
この一言が放たれたとき、ダニエルの脳内では「業スー」「バレた」「破滅」という三つの看板が点滅を始めていた。だが副社長たるもの、容易に狼狽してはならない。彼は知性を装い、こう答える。
「ええと、その……現代の知恵、というか、サステナビリティというか……」
その場しのぎの言葉は、やや過剰な修辞とともに、少しだけ誤魔化しに成功した。成功した、というよりも、カネア社長は彼の滑稽さに興を覚えたらしい。
「飲めなくはありませんけれど……」と呟く彼女の言い回しは、実に絶妙であった。怒ってはいない、しかし納得もしていない。これは「次はないと思いなさい」という柔らかい警告である。
敗北を認めたダニエルは、いつもの手順で紅茶を淹れ直すことにした。茶葉を計り、いつものミルクを温め、蒸らし時間を測りながら、ついでに本当かどうか、己の慢心も反省した。漂い出す本物の紅茶の香りに包まれて、彼は静かにカップを差し出した。
それをひと口すすったカネア嬢の言葉は、簡潔であった。
「……やっぱり、紅茶はこうでなくちゃ」
この一言にこそ、彼女の裁きも赦しも込められていた。
その一言を聞いたダニエルは、胸の内で「もう一生粉には戻らない」と誓った。
だが彼の性格を知る者は、その誓いの有効期限をあまり長く見積もらない。明日にはまた棚を開き、粉のパッケージがウインクする姿を想像しているかもしれない。
ゆえに、カネア社長は予め釘を刺しておく。
「明日も粉でしたら……わたくし、ぶーっとふくれて差し上げますわよ」
その「ぶーっ」が、ダニエルにはどこかご褒美めいて聞こえてしまうあたり、恋というものの業の深さである。
結局のところ――彼にとって紅茶の味など、もはや副次的な問題にすぎなかった。
茶器の向こうに見える彼女の機嫌、その表情。それを守ることこそが、彼の朝の、そして人生の使命なのだから。
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