“湯上がりで絶対にやるぞ”と宣言された夜である。
そう、やった夜だ。
まちがいなく、やっていた。
あれはもはや指令だった。
で、ダニエルという男は、まあ、従った。
眠い目をこすりながら、
「湯冷めしないように」などと、まるで気配りを装いながら、本能のままに動いた。
そして、彼女は言った。
「出してもいい」と。
それを「許可」ととるか、「共謀」ととるか、解釈は自由だが、結果は一つである。
⸻
「今日、“好き”って……聞いてないわ」
妊娠5週。陽性の線はまだ乾いてもいない。
つわりはまだ始まっていないが、情緒はすでにある。ありあまる。
朝から外回りして、帳簿つけて、請求書の桁も間違えて、今ようやくコーヒー入れてるところに。
(えっ、今?????)
(仕事中だぞ)
(いやしかし返事しないとブチキレて泣く…絶対泣く…)
(胎教に悪いか?っていうか、もう聞こえてるのか?)
「す、好きですよ」
声がうわずっている。
「どれくらい?????」
また来た。感情の追い焚き。
「す、すごく……」
「もっと具体的にっ!!!!!」
さらに女は要求を上乗せする。
──「もっとあたくしに構って……」
男は答えた。(つもりだった)
──「構ってますよ、ほら。すごく……」
モニターに映るバランスシートの数字が、返事の語尾を吸い取っていくようだった。
彼女は机をバンと叩き、怒鳴る。
「無視!!?!!!」
イスを半回転させ、とりあえず“気にしてる感”を出すが、この感じだと今日はそれじゃ済まされない。
「だって、資金繰りが……今月も……」
「赤字でも!!あたくしとおなはしはできるでしょうがッ!!!!」
⸻
カネアは腹をさすりながら言う。
「この子の将来が心配ですわ……。
まだ音も聞こえないけど……“パパ、ケチで、しかもレス”って感じてる気がしますの……」
「ちょ、ちょっと待ってください!
昨日も、してたじゃないですか!?ね!?温泉のあとに!」
「“昨日してた”じゃなくて、“今日“の話をしているのですわ!!!」
愛情は日替わり定食、ポイントカードの繰越は存在しない。
昨日の“好き”は、もう使えない。
「あと、あたくしのプリン、食べましたわね!?」
「え、いやそれは賞味期限が——」
「おなかの子が、甘いものを求めていたんですの!!!」
食ったら罪、食わなくても罪。
彼女は子どもを盾にすべての感情を正当化していた。
これを前に、男の言い訳などチリのようだった。
⸻
その夜、ダニエルはソファで寝た。
いや、寝かされた。
いや、「置かれた」。意思は問われていない。
毛布は、気まぐれに投げられた。ありがたく包まる。地獄にもクッションはある。
そこへ、ぺた、ぺた、ぺた……スリッパの足音がした。
「………もう寝た?」
「……いえ、まだ」
「あたくし、眠れませんの。だから……ちょっとだけ、構ってほしいのですけど」
つまり、ついさっき怒った相手に“やさしくされたい”ということだ。
理屈も理由もない。そういうものだ。
⸻
彼女はダニエルの横に座った。まだぺたんこのお腹をさすりながら、少しだけため息をつく。
「この子、やっぱり……女の子かもしれませんわ」
「どうしてですか」
「こんなにわがままなんですもの」
それは、あなたに似て?
でもダニエルは、言わなかった。彼女がそれを自覚して笑っていることに、気づいてしまったからだ。
「……プリンは買ってきます。冷蔵庫の半分、プリンにしてもいいです」
「ほんとう⁉︎」
「はい、週明けに、日持ちのする、特別なものを取り寄せます」
ふたりは、しばらく黙った。
別に特別な沈黙じゃない。ただ流れていく。
⸻
妊娠は戦争で、愛とは毎夜の小競り合いで、けれど、たまに――
ほんのたまに、こんな夜が来る。
「……あなた、“好き”って、まだ言ってませんわ」
「言ってませんでしたっけ?」
「足らないの」
「すごく好きです」
「もっと」
「宇宙にある全部のプリンをあなたにあげてもいいくらい、好きです」
そしたらようやく彼女が笑う。プリンも愛も、毎朝溶けて目減りしているだろう。
だけど夜のあいだだけは、全部が手元にあるふりをして――そのままふたりで眠る。
朝になればまた言われる。「プリンは?」って。
それはそうだ、あれは、“昨日のプリン”だったんだから。