ダニエルとカネアの関係は、雇用主と被雇用者という単純な二元論では到底説明がつかない。それは時として、保護者とその予測不能な被保護者、あるいは演出家とその奔放すぎる主演女優といった、より複雑で流動的な側面を見せるのだ。そして、休日の午後の穏やかな空気を切り裂いて始まったのは、よりによって後者の、最も厄介なパターンの即興劇だった。 

主演女優カネアは、唐突にソファという名の舞台に上がった。そして彼女は、観客であるダニエルただ一人に向けて、その日の芝居のテーマを告げる最初のセリフを囁いた。
「……あたくし、悪い子なの♡」
新聞という現実世界の薄い壁の向こう側で、ダニエルは共演者としての役を求められていることを即座に理解した。彼はゆっくりと顔を上げ、舞台上の女優に視線を合わせる。これは、彼が何度も演じてきた役だった。
「……カネア様? ……ああ、なるほど。今日はそういう日、ですか?」
カネアは、にやりと笑みを返す。その表情の作り方は完璧だった。上品さを決して失わないまま、観客の庇護欲を掻き立てる小悪魔的な要素と、「もっと私を見ていなさい」という舞台人の渇望を、絶妙な配分でブレンドしている。
「ふふ……叱られたい気分、ですの……? ダメ?♡」 

さて、こちらの役作りも始めなければならない。ダニエルは、眼鏡(かけてない)をクイッとし、ゆっくりと立ち上がった。スリッパがフローリングを静かに踏みしめる音は、これから始まるシークエンスへの効果音だ。彼は、この劇の相手役として求められているであろう「少しサディスティックで支配的な男」のペルソナを、脳内のクローゼットから引っ張り出した。

「ダメだなんて……言ってないでしょう?」
声は普段より半音低く、少しだけ重く落とす。
「“悪い子”には、ちゃんと……お仕置きしないとね」
舞台上の女優に静かに近づき、観客がいたとすれば息を呑んだに違いない距離で立ち止まる。

「それとも……自分がどれだけ悪い子か、口で言ってもらおうかな?」

カネアは、この台本の展開に満足したようだった。彼女は観客の期待に応えるべく、自分が犯したとされる可愛らしい罪状を、恍惚とした表情で並べ立て始めた。芝居を盛り上げるための、無害な小道具のつもりだった。

「今日はお紅茶を……カーペットにぶちまけましたわ……♡」

「あと、あなたのクッキーも……ひとりで食べちゃったの……♡」

「あとね、あとね、あなたが一晩かけて頑張って作ってたエクセルファイル、バックアップごと上書きしちゃった……♡♡」

最後のセリフが、ダニエルの耳に届いた瞬間。
彼の足元で、舞台の床が音を立てて崩れ落ちた。目の前の女優も、豪華なソファのセットも、穏やかな休日の午後の照明も、ひとしく奈落の底へと吸い込まれていく。第四の壁は粉々に砕け散り、観客席と舞台の区別は消え失せた。これはもはや劇ではない。現実の、取り返しのつかない事故だった。

「……………」

挿絵1

彼の思考は、役者ダニエルから、危機管理責任者ダニエルへと、コンマ1秒で切り替わった。血の気が引く音と、心臓が凍りつく感覚が、彼の全身を支配した。

「…………それ、決算データ全部入ってたやつなんですけど……」

「…………………え」

凍てつくような沈黙が下りた。舞台監督が時間を止めたかのように、すべてが静止した。遠くで犬が一声吠えたが、それはもはや牧歌的なBGMではなく、この惨劇の始まりを告げる弔鐘のように響いた。

「……………………ご、極悪人ですわ……あたくし……」
舞台から降りた彼女は、もはや小悪魔な主演女優ではなかった。ただの、致命的なミスを犯してしまった、青ざめた一人の人間だった。その声は震え、瞳には本物の絶望が浮かんでいた。

「……わかってるなら、今すぐNAS繋いでバックアップから復元を……」

ダニエルの声は、もはや芝居がかってはいなかった。それは、この惨劇の後始末という、全く新しい台本のない舞台に、たった一人で立たされた男の、最初の業務命令だった。

「……ぐっすん、あたくし、ほんとに……ほんっっっとうに悪い子でしたの……😭」

彼女の涙が本物であることは疑いようもなかったが、今のダニエルには、その涙を拭ってやる感傷的な余裕などひとかけらも残されていなかった。目の前で始まった新たな悲劇の主演は、残念ながら彼女ではなく、自分自身なのだから。

挿絵2
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