減価償却資産としての“一生”
人間が、その生涯において「一生のお願い」という切り札を何回行使するのか。正確な統計は存在しないが、ダニエルの場合、その回数が一般平均を著しく上回っていることだけは確かであった。
彼の“一生”の価値が暴落を始めたきっかけは、リビングの壁に現れた一匹のムカデであった。
殺虫スプレーを片手に震えるダニエルは、新聞紙を丸めて構えるカネアの背中に隠れながら、涙目でこう叫んだのだ。
「あいつを仕留めてください! お願いします、一生のお願いです……!」
命の危機(と彼が錯覚した状況)に発せられたその言葉は、カネアがスリッパの一撃で虫を葬ると同時に、その重みを失った。
その日を境に、彼の一生のお願いは驚くべき速度でインフレーションを起こした。それはもはや切り札ではなく、日常的な要求を通すための安価な通行手形と化した。
「今夜だけ、もう一杯だけ飲ませてください。一生のお願いです」
「洗濯物、明日に延ばさせてください。一生のお願いです」
「あと10分だけ二度寝させてください。一生のお願い……!」
当初、カネアは彼の言葉を額面通りに受け取ろうと努めていた。「あなた、ほんとうにこれきりですのね?」と、いちいち確かめた。
しかし、行使回数が十を超え、二十に達する頃には、彼女の態度は疑念から統計的な観察へと移行した。「また一生のお願い?」という言葉は、もはや問いかけではなく、データ収集の合図であった。カレンダーの隅には「お願い回数」という項目が設けられ、淡々と数字が更新されていった。
「三十六回目。一生って何回あるのかしら?」
「前借りです」
「貸し倒れになりそうですわ」
その会話は、多重債務者と、半ば呆れながらも記録を続けるサラ金業者のそれに酷似していた。ついにはMAMにも「それはもうお願いの年パスでは?」と冷静に指摘される始末であったが、本人に響く気配はなかった。
そして今日。
「……カネア様……っ」
ダニエルは、汗で湿った手でスーツのポケットの中身を確かめながら、彼女の前に立った。彼なりに、これはロマンチックなシチュエーションであると信じて疑わなかった。
「またなの?」
カネアは、ため息一つで彼の意図を察した。その涼しげな表情とは裏腹に、彼女の手には一冊の小さなノートが握られていた。表紙には、几帳面な文字でダニエルの一生のお願い帳と記されている。
「……もう五十回言ってますわよ」
「えっ、うそっ」
「数えてましたの。三十九回目くらいから“これは面白い”と思って」
彼女がノートをパラパラとめくると、そこには彼の情けない半生が凝縮されていた。「USBなくした」「晩ごはんもう一品ほしい」「今日は甘えさせて」。その記録の山の中でも、二十四回目の"これがほんとうにラスト一生のお願いだからと"いう記述が、ひときわ痛々しい光を放っていた。
「えっと……でも、今回こそほんとなんです。正真正銘の」
「それ、前回も聞きましたわ」
「いや、でも、今回はちょっと違ってて──」
ダニエルは一度深く息を吸い込み、背筋を伸ばし、そしておもむろに膝を折った。
「最後の一回にしてもいいですか」
「はいはい、どうぞ」
カネアは、まるで領収書にサインでもするかのように、ペンを構えてその時を待った。

ソファの前でその膝をついたダニエルの姿は、いつもの単なる命乞いとはどこか違う、奇妙な真剣さを帯びていた。
「一生のお願いです。……結婚してください」
沈黙が落ちる。カネアはしばらくの間、ノートに記された「50」という数字と、目の前の男を見比べた。やがて、彼女は契約の最終条項を確認する弁護士のように口を開いた。
「それは、“一生のお願い”の最終回ということでよろしいの?」
「これが最後です」
「信用できませんわ」
「ほんとに、これで最後」
「……なら、特別に」
彼女はペンを走らせ、数字を「51」に書き換えた。
「……してあげますわ。結婚」
「えっ?」
「五十一回目ですし。もうお情けですわ」
「…ほんとうに?」
差し出された彼女の白い指先を、ダニエルは両手でそっと包み込んだ。彼が乱発した五十回分の安っぽい“一生”が、長い時間をかけてようやく一つの指輪の形に結晶化した瞬間だった。
こうして、ダニエルの「一生のお願い」は五十一回目をもって、形式上の打ち止めとなった。
しかし、彼の本質が変わることはない。その後も、「一生のお願い(改)」や「シン・生涯のお願い」といった細かな名称変更を経て、彼による些細な要求は続いたと言うが、それはまた別の話である。