宇宙の歴史には何兆回と朝があったが、この朝はおにぎりの朝だ。 つまり人類の進化にも太陽の膨張にも寄与しない、どうでもいい事件である。 でも、「どうでもいいことが、当人にとっては一大事」というのが、生活というやつの正体であり、往々にして人はそういうどうでもいいことで死にたくなったり、泣いたり、愛したりする。
その朝、カネアは「できましたわよ〜♡」と上機嫌で皿を差し出した。 珍しく早起きし、水で手を濡らして塩まで使い、おにぎりを作ったのだ。 それは、カネアにしては奇跡のような努力の結晶だった。
ラップも使わず、素手で直に盛りつけられた米粒は互いにそっぽを向きながらも、かろうじて集団であることを主張していた。 見る者をほとんど問答無用で「家庭」という古い船へ乗せる質感である。定番の梅、しゃけ。そして肉じゃがの残骸。明らかに昨日の夕飯の残りと思しき構成物が、ひとつの食文化を成してそこにあった。
ダニエルはそれを見て──しばらく黙った。
そしていちばんダメな種類の正直さで言った。
「……あの、わたし……ひとの握ったおにぎり、苦手でして……」
部屋の気温が2度下がった(体感)。 カネアの目が、物理的に狭くなった。
「……あたくしの手が、汚いと?」 「とんでもない。むしろ、尊いです。でも……“ぬくもり”が……」 「ぬくもり?」 「……人肌の、その……うっすら湿度が……」
そのときだった。
カネアは黙ってスリッパを脱ぎ、足を伸ばし、ぺたりと、ダニエルの膝にのせた。
「じゃあ、訊きますけど。あなた、昨日の夜あたくしの足、ぺろぺろしてましたわよね?」
「………」
朝の食卓での発言とは思えないが、事実関係としては「はい」だったのでなお悪い。
時刻はまだ午前、鳥は鳴き、冷蔵庫のモーターも働く。世界は平然と続く。
ダニエルはうなずいた。正座になって。
「……はい。あれは洗ってありましたし、温度も安定していたので……」
「……では今から握りなおしてさしあげます。あんたの大好きなこの足で」
この瞬間、銀河の倫理が一ミリ後退した気がしたが、宇宙が広すぎて誰も気づかない。
ダニエルは正座をほどき、足にキスを落とし、だいたいの後悔を済ませたあとで、皿を手に取った。
「……でも、やっぱりこれはこれで、ありがたくいただきます」
ひとの握ったおにぎりは無理。
けれど、カネア様が握ったおにぎりなら──ありかもしれない。
ダニエルは、皿のおにぎりを持ち上げ、
ほんのりと湿ったその米のぬくもりに、指先で一瞬だけ戸惑い──
それから、黙って口へ運んだ。
「あら。食べましたの?」
「……おいしいです」
「そうでしょう」
「……ぬくもりも、悪くないですね」
宇宙は依然、膨張を続けている。ダニエルの食道もささやかに膨張した。そして朝は終わった。誰も死ななかった。とりあえず。